吐き出したい。

管理人のなちゅきと申します。こちらのブログは私が日々思うこと、考えること、また批判や愚痴などの見苦しいものまで書いていくブログです。一般公開にしていますので、見たい人だけが見ることをおすすめします。

「教師」

みなさんこんにちは。

今日は、教師というお仕事についてふと思ったことがあったのでお話ししようと思います。

 

●教師になるまで●

まず大前提として高校を卒業して、教員免許を取得する条件のために大学に行って卒業して、その後に教職課程を修了して、それでやっと採用試験を受けて教員免許が取得できます。

そして、自分がかつて通っていた学校などで教育実習生として実際の授業をやってみて、それを達成してやっと教員として仕事ができるようになるのです。

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なるだけでもすごく大変なので教員として学校に就くだけでも達成感がすごいですが、ここまではただの準備にほかなりません。学校に就いて、生徒と授業を通してふれあうことが本当の始まり。

わたしがここで言及したいのは、なるだけでも十分大変な教師というお仕事が、なってからはもっと大変だということです。毎日朝早く通勤して授業の用意をして、担当している学級や委員会や部活の管理を書類としてまとめ、会議の用意もして、定期テストも作って採点して、個人的な相談などで職員室にやってきた生徒の相手をする。思いつくだけ文字に起こしてみて、結構あるなと思いましたが、実際はもっともっとあるはずです。

 

教師というお仕事は公務員に分類されますが、一般に言われているような定時退社はできないし、地方公務員のため給料もあまり多くはありません。でも、この職業に就こうとする人がいます。自分の時間が取れなくても、自由に使えるお金が少なくても、それでもいいと就職を願う人がたくさんいます。教師になりたい人たちをそこまで駆り立てているものとは何なのでしょうか。それはやはり、「子供が好き」という気持ちなのだと思います。子供だけに限らず、漠然とした「誰かの力になりたい」という気持ちがある人が教師に向いていると言われています。誰かと接して、誰かを助けて、誰かの力になる。その意志を貫き通せる人が教師としてうまくやっていけるのです。だから、例え生徒が何か悪いことをしても成績が芳しくなくても、教師は決して見放しません。自分の時間を減らしているともいえる「生徒」という対象に、それだけの愛情を持っているのです。

 

自分が学生だった頃、生徒は定期テストが難しい教師を嫌い、小言の多い教師を嫌い、授業中に寝ていても怒らない教師を好いて、多少ふざけていても見逃してくれる教師を好いていました。陰では嫌いな教師の悪口を言って、 やる気のない教科の授業では毎回のように寝て。その当時の私は周りと同じように嫌いな先生の話をして盛り上がったし、解けない定期テストの内容には理不尽に怒ることでテスト期間を乗り切りました。でも、成人してから当時を振り返った時にふと思いました。あの時言っていた言われている本人は知らない悪口や、自分が勉強不足なのを棚に上げて解けない問題に注いでいた恨みは、生徒という立場であった頃の弱い自分が張っていたみっともない虚勢だったのだと。あの頃は皆、すべてが嫌になってぐれてしまっても、不登校になってしまっても、心のどこかで「誰かが助けてくれる」と思っていました。そして、その誰かの中に「教師」という存在があることに気付かず、もしそれに陥っても学校という枠に含まれる教師を忌み嫌って、うまくいかないのは自分のせいじゃないと言い聞かせていたことでしょう。今思えば、これ以上に滑稽なことはありません。深い穴に落ちている状況で目の前に差し伸べられている手を無視して、必死に別の場所を掘って穴から出ようともがいているようなものです。

 

生徒は「教師」という存在に甘えている。私はそう思いました。

体罰が厳しく取り締まられる世の中となった今日、特にそれが顕著になっています。教師と生徒がほぼ対等に扱われるようになったと言えば聞こえはいいですが、逆に言えば生徒が教師という立場を軽視するようになったということです。教師という立場が手をあげられないことを利用して生徒が教師をいじめたり、教師が精神的な障害を負って辞職することも最近は少なくありません。

 

この状況を考慮すると、今日の教師の何%かは生徒に無償の愛を与えながらそれが報われないまま毎日を過ごしているということになります。それでも年ごとの教師志願者数グラフを見てみると、数は落ちることがありません。そういう状況を知っていながら覚悟を決めてなろうとする人がいるということです。教師は体力と精神力が特に必要な職業です。グラフが表しているのは、単に数量としての人数ではなく体力も精神力も誰かに向ける無償の愛も身に着けている人がまだいるということなんだと思います。誰かのさりげない愛や優しさにすぐ気付くことは難しいですが、教師のそれは本当に見抜くのが難しいです。なぜなら、教師の愛に触れる時というのは皆前述したとおり多感な生徒の時であり、それに気付くことができるのは早くても卒業の時で、遅い人は気付かないまま一生を終えることもあるからです。

 

人間が一生のうちに受け取る愛情の送り主を早い順に並べると

1、家族 2、友達 3、教師 4、恋人 ………

となるのですが、個人としての意識の中ではもはや3はないに等しいです。

 

 

私が伝えたいのは、教師という職業に就く人が可哀想だとか、そういうことではありません。あの時気付けなかったことを今になって実感して、誰かに向ける愛を育んでくれればいいなと思うのです。言ってしまえば教師は、不特定多数の他人に愛を注いでいるわけです。家族は血のつながりがあるし、友達や恋人は愛を注ぐ相手を選ぶことができますが、教師は誰が嫌いとか、苦手だとかそういうことなしに平等に生徒に愛を注がないといけません。教師はそれを多少仕事だからという認識はあれど、ほぼ無意識にやってのけます。やはりそれも、「子供が好きだ」という思いがさせているのでしょう。それは私たちが持っている「◯◯が好き」という単純なものに繋げられるのではないでしょうか。かつて他人から受けた無償の愛を思い出して、他人ではない相手への愛をより多く注ぐ。皆ができるようになるのが理想ですが、とても難しいことですよね。だからその愛に気づけた人が、気づいていない人が気づくぐらいに愛を注いでくれればいいなと思うわけです。愛は連鎖する、私はそう信じています。

  

私は幸い、成人する前に教師からの愛に気づくことが出来ました。だから、今、他人に愛を注ぐことの難しさと誰かを愛することの大切さを教えてくれたあの時の「先生たち」に感謝しています。教師、もとい先生は、「先に生きる」と書きます。「先生」という存在は、先に生きることで、私たちにまず愛を教えてくれます。

教師は、教科だけでなく、人生の「教師」でもあるのです。